曙の歴史

曙地区が本格的に山鼻屯田兵が入植し、開拓がはじまったのは明治9年のことです。そのころは、つる草や熊笹、柏の巨木、茅などに覆われた荒野で、薄野の地続きということで明篠(あけしの)と呼ばれ、後に暁野(あけぼの)に改められ、その後「曙」とされました。現在の石山通をはさんで東側(西8、9丁目)と西側(西12、13丁目)に屯田兵屋が建てられ、それぞれ東屯田(通)、西屯田(通)と呼ばれるようになり店舗も建てられともに賑わいました。どちらかと言えば東屯田通りの方が、当時の名残を残していますね。

ちなみに・・・あけぼのアート&コミュニティセンターの建っている場所には札幌で最初の公的な共同墓地が設けられていて、その頃は暁野(あけぼの)墓地と言われておりました。もともと暁野(あけぼの)とは東本願寺よりも南側一帯を指す地名だったようです。